触発されてみる。

ああやって訳の分からない難しいことを書かれると対抗したくなってくる。
ってことで俺もカテゴリー作って小難しい長文を書いてみようかと。


今回は差別用語など、使ってはいけないと言われている言葉について。
色々ありますね。「差別用語」で検索してくれれば山ほど出てくるでしょう。
これを見ていると不思議ですね。「百姓」や「床屋」「獣医」なんかもダメだらしいです。
差別行為ってのは差別意識があって初めて成立するものだと考えるのですが。
まぁその言葉で傷つく人が居るならば使わないのは当然ですが。
例えば「らい病」患者は「らい予防法」によって非人道的な扱いを受けていました。
そこのことから「らい病」ではなく「ハンセン病」と呼ぶように改められました。
微妙なところでは「外人」があります。
排他的な日本人が使うにはピッタリな言葉ですね(何
しかしそんな意識を持って使ってる人は滅多にいませんが。
そう、逆に親しみを込めて「外人さん」と使う人もいます。
それを受け、好んで「ガイジン」と使う当人も居ますし。
言葉ってのは難しいですね。ちなみに報道では一貫して「外国人」と表してます。
余談。海外人って言わないのはなんでだろうね。


さてさて本題。こういったことに関心が向くのは良いことですが過剰反応してしまって大切なことも失ってないだろうか。
差別用語ではありませんが「子供」を「子ども」と表記しなければいけません。
「供」は幼くして奉公に出されて重労働を強いられるイメージがあるとか*1
二宮金次郎銅像が撤去されたのと同じ理屈ですね。
しかしこの漢字は随行するという意味もあり、この場合だと単なる複数形の意味しかないという見解もあります。
これはどこかで見かけた意見なんですが、子が大人に随行るすのは当たり前で、そこで様々なことを学んで成長する。
だから「子供」という表記は問題無く、むしろ本質だという意見。
「ライ病」と違って「子供」が丁稚奉公のイメージがあるから呼ぶなと主張するワケない。
そういうことに対して妙に侮蔑概念を持ってしまうのは大人の勝手。
まぁ両方とも完全に間違った考え方ではないので判断が難しいんですけどね。


実はここで新たに問題となってくるのは文化的な側面だったりする。
「子供」という表記になったのはそれなりに意味や歴史があること。
そういったことで多くの言葉を際限無く変えていっては文化が廃れるのでは、という意見。
言葉はその時代によって変化していくものだけど。
でも意識的に無くしていくってのは文化的にマイナスなのではないのか。何より寂しいし。
試しに絵の具かクレヨンを買ってみてください。今は無い色があります。
それは肌色です。肌の色は人種によって異なるので肌の色を「肌色」として限定してしまうのは良くないのではという配慮から無くなりました。
これは絵の具だったかクレヨンの会社が自主的に無くしたものらしいです。
確かに言われてみればそうですよね・・・。でも寂しいでしょ。
こうやって親しみのある文化が失われてゆくのですよ。
問題に対して意識を持つのは良いことですが過剰になってしまう。何か解決策はありませんか?
そうだ。トリビアの種で出た「松崎しげる色」みたく個人の色で出せば文句は無いだろう!!
誰の肌色を基準にするねん。


てことでありきたりな意見ばかりですが、なんとなくまとめてみた深夜。

*1:多分そういう意味だったような気がする(ぉぃ